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2005年04月16日

鈴木裕の非公開プロフィール

「ものづくりの経験と言うのは、どれだけものを壊したかなんだよ。」
友人、Nの言葉である。
二人でよく壊したよなあ。厚木から横須賀まで実験車を牽引して帰ったこともある。

3歳にしてすでに時計を分解。その後、手当たり次第に家の中のものを分解して親を困らせたと言う幼年時代から、「お前には工学部は無理だ」、と担任に言われた高校時代、そして技術士として独立するまでの鈴木裕の半生の全てがここにあります。

1958年12月 神戸市に生まれる。
父、外国航路の航海士(後に船長)、母、料理と裁縫の得意な専業主婦。
父は普段家にいなかったが、母の暖かい愛情にはぐくまれてわがままいっぱいに育つ。
「ひとりでコロコロいつまでも遊んでいるような子だったわね。それから、よくものを壊したねえ。」
気が付くと、そこらにある時計とか、分解して壊していたらしい。機械いじりの好きな子供だった。

1977年4月 鳥取大学 工学部電子工学科 入学
高校2年の時、担任の先生から、「この成績では理系進学は無理だ。文系にしなさい」と言われて意地になった。両親からは、「うちには私学にやる金はないからね」とも言われていた。
とにかく、1年間死ぬ気で頑張った…、と言えばカッコいいが、実は、その年、工学部の社会の入試問題は、選択した日本史が極端に難しく、他とのバランスを調整された結果、ラッキーにも合格したのだった。

1981年3月 鳥取大学 工学部電子工学科 卒業
下宿生活で羽根をのばし、車とバイクと写真に明け暮れた大学生活。単位はギリギリだった。実は、院試に落っこちて、あわてて就職先を探した。

1981年4月 日産自動車株式会社 入社
厚木市のテクニカルセンターで乗用車の研究開発。本当はエンジンの制御をやりたかったが、電子制御自動変速機の先駆者となる。

1990年、上司と喧嘩して、電子開発部に飛ばされる。半年間、カーナビゲーションシステムの開発を担当。
このときの発明は、現在ほとんど全てのカーナビゲーションシステムが採用しているが、なぜか日産はこれを権利化しなかった。

1991年、「俺は変速機をやりたい。やらせてくれなければ辞めてやる」とワガママを通して、中央研究所に異動。厚木市から横須賀市まで、片道50kmを通勤することになる。運転は好きだったのでこの通勤は苦にならなかった。

中央研究所では自動変速機とトロイダルCVTの電子制御開発を担当。トロイダルCVTは、「金喰い虫」、「モノにならない」と社内の風当たりのきついプロジェクトで、いつ潰されても不思議ではなかった。この電子制御は部下とたった2人で作り上げた。ただ、現場が最優先で協力してくれたのが嬉しかった。

そして、CVTを手動変速させると言う非常識な発想で逆転。プロジェクトを社内に認めさせることに成功。このとき、会長以下、ほとんどの重役が試作車にこぞって試乗。この中には、ルノーとの提携を決断した塙義一副社長(当時)もいた。

後に、トロイダルCVTはエクストロイドCVTの商品名で、セドリック・グロリアに搭載されて世界中のカーメーカーを震撼させることになる。1999年のことだ。

1995年1月 阪神淡路大震災。
実家は大規模半壊の被害に遭う。心労から体調を崩す。ぼーっとしていて会社の帰りに交通事故をおこしてしまう。幸い、相手の運転手は軽症だったが車は全損。さらに追い討ちをかけるように通勤途中でおカマを掘られる。代車で50km/hオーバー、免停60日になる。ほとほと疲れ果てた。

1996年4月 実家に帰ることを決意し、日産自動車株式会社 退社

1996年5月 日本ヒューレット・パッカード株式会社(後に分社、現在のアジレント・テクノロジー社) 入社。大阪勤務。
コンサルタントとしての第一歩を踏み出す。VXIと言う、元々アメリカ空軍向けに開発されたモジュール式計測器のシステムエンジニアリングとカスタマーサポートを担当する。

ハードだった。青森の、ローカル線の各駅停車しか止まらないような小さな駅から車で2時間もかかるような山の中から種子島まで、全国を飛び回った。夜中の2時まで客先にいたこともある。胸倉をつかまれたこともある。目の前で机をひっくり返されて罵声を浴びせられたこともある。

とにかく、クレームの多い、難しい製品だった。製品に対する、日本のサポート担当者の経験が不足していた。
その製品を製造している、アメリカ・コロラド州の事業所に1ヶ月滞在。日本のサポートエンジニア向けのトレーニングキットをつくった。

会社の中で一番大事なのは営業だ。営業戦略を間違えると忙しくて儲からない会社になる。この事を、この時にいやと言うほど思い知る。

1998年から、神戸事業所で電子部品計測器の開発に従事する。
ここでもボストンのOEM元企業と客先を忙しく飛び回る日々が続く。 1998年のクリスマスイブは、ボストンからの帰りの飛行機の中で、日付変更線と共にどこかに消え去る。

1999年2月18日、病院の冷たい廊下でボストンと電話会議をしていた。その2時間後、父が死んだ。癌だった。

2001年11月 アジレント・テクノロジー 退社。
「当社には、君に活躍してもらえる場所は、もうない。」関わっていたプロジェクトがなくなった。あっさりとリストラされてしまった。
失業保険をもらいながら、ハローワークに通う日々。そしてついに無収入になる…。
どん底だった。

日本と言うのは、底辺には優しい。贅沢さえしなければ、なんとか人並みの生活がおくれるのだ。
しかし、これではいかん、と、一念発起して独立、自営を始める。

2003年10月 有限会社SRD 代表取締役 就任

私を一人前の技術者に育ててくれたのは、「ものづくり」でした。
日本の高度成長を支えてきたのも、ものづくり企業でした。
その、ものづくり企業が、今、海外の安い製品に押されて崖っぷちに立たされていると聞きました。
かつての私のように、あっさりとリストラされてしまうのでしょうか?

私の経験を役立てて欲しい。

その思いから、会社設立。「いい技術を持っているのに売り方を知らないで損している日本のものづくり企業」の真に役に立つ、ものづくりとマーケティングのアドバイスをしています。
教科書にのっているような、かっこいい知識ではありません。
あなたの技術を生かす商品を見つけ、開発し、それを効果的に売り込むことのできる方法です。
私の経験に基づく実戦的なノウハウです。

一方で、日本が世界を圧巻する競争力を維持するためには、次世代を担う「人」をつくることも大事です。
大学で教えているのはその為です。

そして、もう一つ、私を育ててくれたものがあります。
それが自動車ラリーです。

私は、ものづくりでも、ラリーでも、命がけで戦ってきました。
だから、命がけで戦っている、あなたの気持ちがよくわかるのです。

投稿者 suzuki : 2005年04月16日 01:27

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