大学講義 技術者倫理
http://blog.suzukiyutaka.com/archives/2005/09/post_79.htmlでも書いたとおり、今年は、大学で技術者倫理の講義を担当している。
はじめはどうなることかと思ったが、それもようやく最終章を迎えようとしている。
人にものを教える、と言うことは自分自身、とてもいい学びになる、と言うことを今回ほど強く感じたことはない。
元々、技術一筋の私にとって、倫理学ほどなじみのないものはなかった。
この講義をするにあたっては、プラトン、アリストテレスをはじめ、100冊以上の本を読んだ。
倫理とは、そもそも何なのか?
フランクシナトラの「My Way」と言う曲がある。
要するに、倫理とはそれなのだ。
倫理学の祖、アリストテレスは、次のように言っている。
「倫理の目的は、幸福の追求である。」
この幸福と言う言葉は、誤解を招きやすいので注釈が必要だ。
幸福、と翻訳される元の英語は"happiness"だ。
happyは、日本語の幸福とは若干違う。それは、「私の精神の状態はとてもよい」と言う意味だ。体調のよしあしを示す、"fine"と対を成す言葉だ。(参考:「英文法の謎を解く」p.37−副島隆彦)
そして、この"happiness"は、古代ギリシアの言葉、"eudaemonia"=「エウダイモニアン、よく生きている、生きがいのある人生を生きている」が語源だ。(参考:「アリストテレス倫理学入門」p.19−J. O. アームソン)
そう、アリストテレスは、倫理学の目的はeudaemoniaの追求である、と言ったのだ。
フランクシナトラのMy Wayは、まもなく人生の終わりを迎えようとしている男が人生を振り返り、「私は、レールに乗った人生も考えたこともある。しかし、結局は、困難に立ち向かう道を選んだ。そしてそれは全て私が選んだものだ。(だから、わが人生に悔いはない)」と歌い上げる。
生きがいのある人生とは死ぬ間際にわかるものかも知れない。
講義のなかで、いくつかのケーススタディをやった。
ケーススタディについては、よく行われるのは、何年も前の、大きな事件について、技術者の取った行動を分析する、と言うものである。例えば、1986年のスペースシャトルチャレンジャー号の事故、1977年に完成した、NYのシティコープ・タワービルの設計不良問題、1960年代の、フォードピント欠陥車訴訟などである。わが国の最近の事例で、東海村の臨界事故や雪印乳業問題を取り上げることもある。
これらの事例から、技術者としての行動規範を学ぼう、と言うわけだ。
このようなケーススタディに全く意味がない、とは言わない。失敗事例から学ぶことは重要である。(「失敗学のすすめ」−畑村洋太郎)
しかし、技術者倫理に限らず、全ての工学問題は、「答えのない問題」である。
すでに答えの出ている問題について考えることは、未知の問題に立ち向かうための、「考える力」を養う上では意味がない。
意味がないだけではなく、「考える力」を奪いかねない。
実際に、そう言う事件についてどう思うか、と学生に聞いても、「不正はいけない」「人命は尊重しなければ」「使う人のことを考えて…」などと表面的な答えしか返ってこない。
(アリストテレスは、「人は、物語に感動することによってカタルシス(精神の浄化)を果たし、倫理的行動を学ぶことができる」、とも言っているが、これらのケーススタディは、物語と言うにはあまりに稚拙な、出来事を時系列で述べただけのものであり、お世辞にも感動できる、と言うものではない。長くなるので、これについては、また別な機会に書くことにしよう。)
今回の授業で取り上げたケーススタディの中で、印象に残っているのは、今、世間をにぎわせている、姉歯元一級建築士による、マンションなどの建築構造計算書偽造問題である。
この問題が最初に報道された時から、ケーススタディの材料に使った。
私が学生に与えた課題は、「あなたが建築会社のエンジニアだとして、設計図がおかしいと思ったら、どうするか?」と言うものである。
「自分の生活を考えると、なにも出来ない」、「一応、自分で計算してみるが、上司や会社に圧力をかけられればそれに従うと思う」、「会社を辞めてでも告発する」など、実に様々な答えが出てきて驚いたのだが、かなりの数の学生が「誰か、他の建築士に再計算を依頼する」と答えた。
そして、現実に、今回の不正が明らかになったきっかけは、そのとおりだったことが後でわかった。
このケーススタディを通じて、「自分で考える」と言うことの重要性を理解してもらえたと思っている。
アリストテレスは、また、こうも言っている。「倫理は、人間自身の問題であり、適切な教育、訓練によって達成できる。そして、人間の行為は、それ自体に価値があり、個々の状況に応じた思慮分別こそが重要である。」
今、世の中で、技術者の倫理、と言うとき、多くの場合は、制度・法律・環境を整えることによって達成できる、しかも、個々の状況ではなく、行為はその目的、つまり、最大多数の最大幸福、と言う行動規則こそが重要である、と言う考えに基づいている。(このような考え方を、行動主義、功利主義といい、現代倫理学の中心テーマでもある)
その結果として、「不正はいけない」「人命を尊重して」「消費者や社会、環境に配慮して」などという口当たりのいい言葉だけが独り歩きするのだ。
倫理とは、「My Way」である。
人間には「考える力」がある。定められたルールに従ってしか働くことのできないコンピューターとの違いはそこにある。
一人一人が個々の状況に応じて、考え抜くことこそが、今、もっとも技術者に求められているのではないだろうか?
人は、そもそも自分のことしか考えない。「消費者や社会、環境に配慮」など、元々できないのだ。
それならそれでいいではないか。
私にも経験がある。
昔、自動車メーカーの駆け出しのエンジニアだったころ、市場で車がスピンする不具合を出したことがある。私が書いた制御プログラムが原因だった。
私は、その報告を受けた日に、生涯最初で最後のリコール通知書を書いた。
私には、ずば抜けた正義感があるわけではない。
ただ、「自分の設計した車で人が死んだら、気ィが悪い」と思っただけだ。後に悔いを残したくなかったからだ。要するに、自分のためだ。それ以外には、理由などない。
人はいつか死ぬ。
そのときに、悔いのない人生を生きたことを、よろこび、誇りに思いながら死にたいものだ。
エウダイモニアン、「生きがいのある人生」とは、そう言うものだろう。
投稿者 suzuki : 2005年12月11日 02:23
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